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春陽堂の歴史

和田篤太郎 春陽堂の創業は明治11年(1878年)と見られています。神田泉町に開いた小さな店からその歴史は始まりました。創業者の名は和田篤太郎。創業当時はわずかな本を店に並べ、さらに本を背負っての行商もしていました。篤太郎は美濃(岐阜県)の出身で、16歳の時、明治開化に伴って上京、その後奉公や、商いの失敗、西南戦争への従軍などを経験し、苦労を重ねました。髭を生やした強面の人相は一時期警察官をしていた頃の名残であったのかもしれませんが、店先を行き交う人たちからは近づき難い存在に見えたようです。   明治15年、初めての文学作品である南園竹翠「三ッ巴戀の白雪」(上・下巻)が出版されました。その翌年にはルソー「民約論覆義」の翻訳本を出版します。翻訳出版は先見の明のあった篤太郎のすぐれたアイデアによるもので、春陽堂の名前を広く知らしめるきっかけとなりました。明治19年以降の数年間は「伊曾保物語」(イソップ)、「三十五日間空中旅行」(ヴェルヌ)、「セキスピア物語」(チャールズ・ラム)、「魯敏孫漂流記」(デフォー)など、さかんに翻訳本を手掛けています。

その後、店は日本橋へと移転されます。ほかの多くの本屋と同様、当初は本の取次と自社出版の両方を手掛けていましたが、やがてそれまでになかった新しいタイプの文芸書や外国文学、その他のジャンルを開拓していきました。例えば、美術雑誌の先駆者ともいえる「美術世界」(明治27年)は木版彩色奉書摺という当時としては画期的な印刷技法による豪華な本でした。また、ファウラーの「男女交合新論」(明治21年)といった異色のタイトルも出版されました。

 明治22年1月には春陽堂の代表的雑誌「新小説」が産声をあげました。大正15年まで続いたこの雑誌の歴史はとりもなおさず、明治・大正の文壇史ともいえるでしょう。
 第一期の創刊は、石橋忍月、森田思軒、須藤南翠、饗庭篁村らによる同好会員によって編集・発行、印刷者は和田篤太郎でした。明治20~30年代は、文芸書は人気がなく、商売にならない分野でした。それでも篤太郎が「新小説」を立ち上げたのは、本格的な小説雑誌(この頃はまだ文芸雑誌という言葉がありませんでした)を出版し、春陽堂を一流の書肆にしたい、さらには文学界の振興にも一役買いたいという夢があったからです。こうした志に、もとから親しい関係にあった須藤南翠が応え、その号令のもと著名作家らが集まったのでした。
  創刊号の発刊の趣旨にはこんなことが書かれています
「世の信ずる所を以てすれば、其目的新小説家を会するに在り、新小説を発行するに在り。然らば即ち新小説とは何ぞ、新小説家とは何人か。新小説は婦女子の玩具弄物に非ず、世人に媚びて自ら售るの具に非ず、哲学家の理論、政治家の事業、宗教家の説法、慈善家の施与、憂世家の慷慨等の横合より突進し、自家の胸臆を下界の想像に寓し、宇宙に漫布散在せる無量無限の資料を収拾して、空中に、楼閣を架し、人物を現し、逢遇を作り、死活を擬し、以て興起せしめ、以て娯楽せしめ、以て戒慎せしめ、以て感悟せしめ、以て彼社会の諸派伝道師と共に其経論の大業を(漢字が出ない)するものなり…」

「新小説」をそれまでの戯作や旧小説ではない、新しい表現を発表する場にしようという意気込みが感じられます。創刊第一号の表紙は鈴木華村の手によるもので、ディケンズの詩集「クリスマス・カロル」を粉本とした意匠で、ひじょうに斬新なものでした。(続く)